『御神の歴史』 ~神代から平安時代まで~
御名神亭の業務日誌
雷「え~、とりあえず御神の一族の歴史を一部公開」
ほ「つーか、出来た分だけって話だがな(^^;」
雷「だって、時間かかるわ、めがっさ長いわで大変なんだもん(苦笑」
み「とりあえず、年数も書いてないぐらいおおよそ過ぎてあまり役に立たないかもしてませんが、一応参考にして下さい。
結構設定の補完分もあると思いますので(^^;」
雷「つーか、めっさ捏造歴史だな(苦笑」
ほ「…自分で言うな(--;」
み「あはは…
それと、鎌倉時代以降は後日になると思います(^^;」
ほ「つーか、出来た分だけって話だがな(^^;」
雷「だって、時間かかるわ、めがっさ長いわで大変なんだもん(苦笑」
み「とりあえず、年数も書いてないぐらいおおよそ過ぎてあまり役に立たないかもしてませんが、一応参考にして下さい。
結構設定の補完分もあると思いますので(^^;」
雷「つーか、めっさ捏造歴史だな(苦笑」
ほ「…自分で言うな(--;」
み「あはは…
それと、鎌倉時代以降は後日になると思います(^^;」
神代(かみよ)の終焉
人間の数が増え、地上の支配権を持ち始めると、“世界の構造”が“精神に重きを置く世界”から“肉体に重きを置く世界”に緩やかに変化をしてゆく。
その中で、精神に重きを置いてきた神族等と呼ばれる古き種族はその存在を保てなくなり、ある者は肉体や存在が変質し、ある者は“世界”に溶けていった。
そうして多くの者達は“世界”の一部を切り分けるように“異世界”を創り出し、その世界に逃れて生きていった。
そうして、益々世界は人間の支配する世界へと移行していったのである。
しかし、一部には世の流れに逆らわず人間と交わり、人間の中で生きていく事を選択した者達もいた。
その一つが御神家となるのである。
御名神家の誕生
人として生きる御神家だが異能の力は消えず(通常は徐々に力を失う場合が多い)、むしろ人の身では負担が大きく不安定であった。
その解決策として同じく人に混じった異能の一族で、異能の力を“言霊”と言う技術で制御している者達と交わり、その一族を御名神家として迎えたのである。
この名残が御神の一族の能力に結びついた名前となるのである。
古代日本
この時代、倭と呼ばれた日本の地には大小様々な国が乱立していた。
その中でも30余りの国を統治していたヤマト(大和)の国(『隋書』倭国伝による、邪馬台国の事。 これは当時の日本は文字を持たなかったので、音を当時の中国が勝手に漢字を当てた為である)の女王・ヒミコ(『隋書』倭国伝による、卑弥呼。
後の漢字を正しく当てはめるなら、日巫女もしくは日御子)は鬼道という占いを使う異能の一族であった。
ヒミコは太陽を信仰し、占いで良く国を治めていたが、死後(日食により求心力を失い暗殺された説もあるが、真偽は不明)再び小国同士の争いで国は乱れた為、ヒミコの一族の13歳の巫女・台与(とよ・壱与〔いよ、いちよ〕とも)を新しき女王に据える事でヤマトの国に平和をもたらした。
後の天皇の誕生
女王となった台与だが、九州地方からやってきてヤマトの国の一つ(現在の奈良県あたり)を手に入れた王が、天津神族アマテラスの末裔(台与の一族や御神と同じく人間と交わる事で異能の力は既に失われていたが)である事を見抜き、ヤマトの国の全てを治める大王(おおきみ)の権限を譲り、自らは退陣する。
(台与の一族は太陽を信仰する一族だったので、太陽神の末裔に王位を譲る事は台与にとって自然の発想だったのだろう)
この大王こそ、後の世に神武天皇と呼ばれる人物である。
御鏡家の誕生
女王を退陣した台与は一族を率いヤマトの国を離れるつもりであったが、大王の側近にはその事を不安視する声もあった(謀反の原因になるのではないかと思ったのだろう)。
その時、双方の意見を取り持ったのが、大王がヤマトに来る途中で招き入れていた御神だった。
台与の一族は御神家の預かりとし、謀反あらばその責は御神も取る事としその場を収めた。
そして御鏡家として御神一族の一員に加わる事となる。
日本武尊と御剣家の誕生。
景行天皇の息子、小碓命(ヨウスノミコト)〔彼は双子で、兄は大碓命(オオウスノミコト)と言うが、早くに亡くなっている(暗殺とも言われる)〕は父より難業 九州・熊襲(クマソ)征伐を命じられる(父に嫌われていたらしい)。
熊襲は武勇に優れ、小碓には御神と数名の供のみ。
圧倒的不利ではあったが、計略と御神の幻惑(小碓を絶世の美女に見せた)で熊襲の王・クマソタケルの喉元に迫る。
己が命運尽きた事を悟ったクマソタケルは覚悟を決めたが、その武勇と潔さを惜しいと感じた御神は、小碓にその命を助ける代わりにタケルの名を取り上げる事を進言した(名を取り上げる事は命を奪うに等しいと言う言霊的な思想)。
こうして、小碓はこの後、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と名乗り、景行天皇にはクマソタケルを討ち取ったと虚偽の報告をする。
(なお、日本をヤマトと読むのは倭=和となり、その首都を大和(ヤマト)の国、転じて大和=日本でヤマトと読むのではないだろうか?)
命の助かったクマソは御神の一員に加わり、新たに御剣の名を名乗る事となる。
なお、名前の由来はクマソの王の象徴ヒヒイロカネの剣から。 以後、御剣家には代々ヒヒイロカネの剣が度々打ち直しを重ね伝わっていく(現代では鋼刃の愛刀・鋼虎となっている)
関東平定と御珠家。
死ぬはずだった武(タケル)が生きて帰ってきた為、景行天皇は更に関東平定を命ずる。
途中、現在の静岡県の天竜川周辺の集落に、天竜川に住んでいた竜神が消える(溶ける)直前に如意宝珠を渡された末裔の男が加わり、後に御珠家となっていく。
武の関東平定は、今の静岡県焼津あたりでは周囲の草原に火をかけられ、炎に囲まれたり、
今の神奈川県~千葉県の間の海を渡る時に大時化に巻き込まれあわや転覆直前になるも、妻であるオトタチバナ姫が命を捧げる事で如意宝珠の力を開放し(如意宝珠の力を完全に使いこなす事は後の御珠家の人間でも稀で、代償がいる方が多い)波を沈めたり困難を極めながらも成し遂げる。
その後の日本武尊の経緯は皆が知るところである。
そして、この経緯を踏まえて、現在の基礎を形作った御神の一族は中央(朝廷)から一定の距離を置くようになったのである。
国号と日本の神話の固定化
4世紀ごろから倭国は海外(主に中国、朝鮮半島)との交易などを盛んにして行く。
それに伴い中国より仏教が伝来。 仏教の仏の理(ことわり)が倭の国に入り一時倭国の理が乱れるが、“本地垂迹”(インドの神 ブラフマーが大日如来に変じ日本に入り、更に天照大神にも変じ伊勢神宮におわす。 カミと言う者はあらゆる時間、場所、姿で同時に存在し、一つにして数多で在り得ると言う説である。“権現”とも言う。 予断だが、ならばカミ=“世界(もしくはその一部)”と言う事にもなるかもしれない)と言う理により融合していく。
推古天皇の時代、聖徳太子の中国に宛てた書簡により大王(おおきみ)は隋の皇帝と同等であるとして「天皇」の称号を生み出す(これにより、以前の大王も天皇の呼称をする)。
7世紀ごろ、中国とは決別する意味でも(倭は中国の当て字と思われる)日本という国号に変え他のでは無いかと思われる。
古事記、日本書紀の編纂を経て、日本の国の理がほぼ固定化される。
なぜなら、この世界は“世界を書き換える”事で現在、未来はおろか過去すら捏造(改変)出来てしまう上、誰も知らないうちにそれが正史となる危険性も含んでいる。
平安の栄華と物の怪の横行。
平安時代、貴族社会の繁栄を謳歌した京の都だが、一度は分かれた異世界が度々接触、融合するようになったり、隠れ住んでいた人外の民と人間の領域が重なったりした為(過去にもあったが頻繁化した)軋轢が生じ、魑魅魍魎が跋扈する魔京と成り果てていた。
これに対する為に、朝廷は陰陽師などの占い師や祓い師を重用するが、政争に拍車をかけ逆に世を乱す一因となる事は皮肉である。
御門家の誕生。
こうなると朝廷すら陰陽師を御しきれず、また魑魅魍魎の脅威も増すばかり。
物の怪や人外の民に精通し事態を収める事の出来る者として白羽の矢が立ったのが、朝廷から距離を置いていた御神とその一族であった。
そこで御神は朝廷に敵対しない代わりに、朝廷も御神のやり方に不干渉を条件に陰陽師達の監視を受けたのである。
御神の存在は陰陽師の中でも知れ渡っていた為、御神に賛同した者、政争に負け追われていた者が集い、対怪異集団として御門家が誕生した。
もちろん、御神と交わる事でその能力の強化も狙っていた。
後に、御門の中から力に溺れ、御神の思想から離反する者も現れ、そうした者達が人外の民と交わったりしながら、歴史の裏側で暗躍する「御霊(ごりょう)一族」として御神の一族、特に御門と敵対していくのである。
酒呑童子と御鬼家の誕生
御門家が編成されて暫くして、京の都では度々鬼達が都に降りては暴れていた。
そこで討伐隊が編成され、御神からは御剣家と御門家の長が加わった。
鬼達の長、酒呑童子と対峙した御剣の長は一昼夜にわたる死闘の末に酒呑童子を打ち倒したが、息絶える間際に、都に渦巻く悪意の想念が、彼らの一族を凶暴化させた事(鬼族は元々一部の神族が変質した種族の為、霊的側面を有していた)、残った一族の今後を託して逝った。
そこで、鬼族の凶暴化を御門の呪力で抑えつつ、御神に加え血を交える事で存続の道を模索して言った。
これが後に御鬼家となり、更に御木家となるが、極力人の悪意の想念を避ける為に人里に住まず隠れ里に住む道を選ぶのである。
2.16
人間の数が増え、地上の支配権を持ち始めると、“世界の構造”が“精神に重きを置く世界”から“肉体に重きを置く世界”に緩やかに変化をしてゆく。
その中で、精神に重きを置いてきた神族等と呼ばれる古き種族はその存在を保てなくなり、ある者は肉体や存在が変質し、ある者は“世界”に溶けていった。
そうして多くの者達は“世界”の一部を切り分けるように“異世界”を創り出し、その世界に逃れて生きていった。
そうして、益々世界は人間の支配する世界へと移行していったのである。
しかし、一部には世の流れに逆らわず人間と交わり、人間の中で生きていく事を選択した者達もいた。
その一つが御神家となるのである。
御名神家の誕生
人として生きる御神家だが異能の力は消えず(通常は徐々に力を失う場合が多い)、むしろ人の身では負担が大きく不安定であった。
その解決策として同じく人に混じった異能の一族で、異能の力を“言霊”と言う技術で制御している者達と交わり、その一族を御名神家として迎えたのである。
この名残が御神の一族の能力に結びついた名前となるのである。
古代日本
この時代、倭と呼ばれた日本の地には大小様々な国が乱立していた。
その中でも30余りの国を統治していたヤマト(大和)の国(『隋書』倭国伝による、邪馬台国の事。 これは当時の日本は文字を持たなかったので、音を当時の中国が勝手に漢字を当てた為である)の女王・ヒミコ(『隋書』倭国伝による、卑弥呼。
後の漢字を正しく当てはめるなら、日巫女もしくは日御子)は鬼道という占いを使う異能の一族であった。
ヒミコは太陽を信仰し、占いで良く国を治めていたが、死後(日食により求心力を失い暗殺された説もあるが、真偽は不明)再び小国同士の争いで国は乱れた為、ヒミコの一族の13歳の巫女・台与(とよ・壱与〔いよ、いちよ〕とも)を新しき女王に据える事でヤマトの国に平和をもたらした。
後の天皇の誕生
女王となった台与だが、九州地方からやってきてヤマトの国の一つ(現在の奈良県あたり)を手に入れた王が、天津神族アマテラスの末裔(台与の一族や御神と同じく人間と交わる事で異能の力は既に失われていたが)である事を見抜き、ヤマトの国の全てを治める大王(おおきみ)の権限を譲り、自らは退陣する。
(台与の一族は太陽を信仰する一族だったので、太陽神の末裔に王位を譲る事は台与にとって自然の発想だったのだろう)
この大王こそ、後の世に神武天皇と呼ばれる人物である。
御鏡家の誕生
女王を退陣した台与は一族を率いヤマトの国を離れるつもりであったが、大王の側近にはその事を不安視する声もあった(謀反の原因になるのではないかと思ったのだろう)。
その時、双方の意見を取り持ったのが、大王がヤマトに来る途中で招き入れていた御神だった。
台与の一族は御神家の預かりとし、謀反あらばその責は御神も取る事としその場を収めた。
そして御鏡家として御神一族の一員に加わる事となる。
日本武尊と御剣家の誕生。
景行天皇の息子、小碓命(ヨウスノミコト)〔彼は双子で、兄は大碓命(オオウスノミコト)と言うが、早くに亡くなっている(暗殺とも言われる)〕は父より難業 九州・熊襲(クマソ)征伐を命じられる(父に嫌われていたらしい)。
熊襲は武勇に優れ、小碓には御神と数名の供のみ。
圧倒的不利ではあったが、計略と御神の幻惑(小碓を絶世の美女に見せた)で熊襲の王・クマソタケルの喉元に迫る。
己が命運尽きた事を悟ったクマソタケルは覚悟を決めたが、その武勇と潔さを惜しいと感じた御神は、小碓にその命を助ける代わりにタケルの名を取り上げる事を進言した(名を取り上げる事は命を奪うに等しいと言う言霊的な思想)。
こうして、小碓はこの後、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と名乗り、景行天皇にはクマソタケルを討ち取ったと虚偽の報告をする。
(なお、日本をヤマトと読むのは倭=和となり、その首都を大和(ヤマト)の国、転じて大和=日本でヤマトと読むのではないだろうか?)
命の助かったクマソは御神の一員に加わり、新たに御剣の名を名乗る事となる。
なお、名前の由来はクマソの王の象徴ヒヒイロカネの剣から。 以後、御剣家には代々ヒヒイロカネの剣が度々打ち直しを重ね伝わっていく(現代では鋼刃の愛刀・鋼虎となっている)
関東平定と御珠家。
死ぬはずだった武(タケル)が生きて帰ってきた為、景行天皇は更に関東平定を命ずる。
途中、現在の静岡県の天竜川周辺の集落に、天竜川に住んでいた竜神が消える(溶ける)直前に如意宝珠を渡された末裔の男が加わり、後に御珠家となっていく。
武の関東平定は、今の静岡県焼津あたりでは周囲の草原に火をかけられ、炎に囲まれたり、
今の神奈川県~千葉県の間の海を渡る時に大時化に巻き込まれあわや転覆直前になるも、妻であるオトタチバナ姫が命を捧げる事で如意宝珠の力を開放し(如意宝珠の力を完全に使いこなす事は後の御珠家の人間でも稀で、代償がいる方が多い)波を沈めたり困難を極めながらも成し遂げる。
その後の日本武尊の経緯は皆が知るところである。
そして、この経緯を踏まえて、現在の基礎を形作った御神の一族は中央(朝廷)から一定の距離を置くようになったのである。
国号と日本の神話の固定化
4世紀ごろから倭国は海外(主に中国、朝鮮半島)との交易などを盛んにして行く。
それに伴い中国より仏教が伝来。 仏教の仏の理(ことわり)が倭の国に入り一時倭国の理が乱れるが、“本地垂迹”(インドの神 ブラフマーが大日如来に変じ日本に入り、更に天照大神にも変じ伊勢神宮におわす。 カミと言う者はあらゆる時間、場所、姿で同時に存在し、一つにして数多で在り得ると言う説である。“権現”とも言う。 予断だが、ならばカミ=“世界(もしくはその一部)”と言う事にもなるかもしれない)と言う理により融合していく。
推古天皇の時代、聖徳太子の中国に宛てた書簡により大王(おおきみ)は隋の皇帝と同等であるとして「天皇」の称号を生み出す(これにより、以前の大王も天皇の呼称をする)。
7世紀ごろ、中国とは決別する意味でも(倭は中国の当て字と思われる)日本という国号に変え他のでは無いかと思われる。
古事記、日本書紀の編纂を経て、日本の国の理がほぼ固定化される。
なぜなら、この世界は“世界を書き換える”事で現在、未来はおろか過去すら捏造(改変)出来てしまう上、誰も知らないうちにそれが正史となる危険性も含んでいる。
平安の栄華と物の怪の横行。
平安時代、貴族社会の繁栄を謳歌した京の都だが、一度は分かれた異世界が度々接触、融合するようになったり、隠れ住んでいた人外の民と人間の領域が重なったりした為(過去にもあったが頻繁化した)軋轢が生じ、魑魅魍魎が跋扈する魔京と成り果てていた。
これに対する為に、朝廷は陰陽師などの占い師や祓い師を重用するが、政争に拍車をかけ逆に世を乱す一因となる事は皮肉である。
御門家の誕生。
こうなると朝廷すら陰陽師を御しきれず、また魑魅魍魎の脅威も増すばかり。
物の怪や人外の民に精通し事態を収める事の出来る者として白羽の矢が立ったのが、朝廷から距離を置いていた御神とその一族であった。
そこで御神は朝廷に敵対しない代わりに、朝廷も御神のやり方に不干渉を条件に陰陽師達の監視を受けたのである。
御神の存在は陰陽師の中でも知れ渡っていた為、御神に賛同した者、政争に負け追われていた者が集い、対怪異集団として御門家が誕生した。
もちろん、御神と交わる事でその能力の強化も狙っていた。
後に、御門の中から力に溺れ、御神の思想から離反する者も現れ、そうした者達が人外の民と交わったりしながら、歴史の裏側で暗躍する「御霊(ごりょう)一族」として御神の一族、特に御門と敵対していくのである。
酒呑童子と御鬼家の誕生
御門家が編成されて暫くして、京の都では度々鬼達が都に降りては暴れていた。
そこで討伐隊が編成され、御神からは御剣家と御門家の長が加わった。
鬼達の長、酒呑童子と対峙した御剣の長は一昼夜にわたる死闘の末に酒呑童子を打ち倒したが、息絶える間際に、都に渦巻く悪意の想念が、彼らの一族を凶暴化させた事(鬼族は元々一部の神族が変質した種族の為、霊的側面を有していた)、残った一族の今後を託して逝った。
そこで、鬼族の凶暴化を御門の呪力で抑えつつ、御神に加え血を交える事で存続の道を模索して言った。
これが後に御鬼家となり、更に御木家となるが、極力人の悪意の想念を避ける為に人里に住まず隠れ里に住む道を選ぶのである。
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